修了者の声

臨床瞑想法指導者養成講習会を修了して

高木宏昌 男性 60歳 僧侶 愛知県

私は幼少の頃より、どういうわけか存在の神秘に魅了され、哲学だけではなく、宗教にも強く心惹かれるようになりました。いつの間にか、キリスト教を始めとして、さまざまな宗教を遍歴した末に、33歳の時に浄土宗の僧侶になりました。浄土宗と言えば、専修念仏なのですが、私の場合は、ヨーガ、瞑想、坐禅、祈り、賛美歌など、さまざまな宗教的実践も機会があれば今でも行っています。最近、私は還暦を迎えましたが、残された人生において、スピリチュアルケアの分野で少しでも貢献したいと思い、日本においてスピリチュアルケアの権威である飛騨千光寺の大下大圓住職が主宰する臨床瞑想法指導者養成講習会に参加することにしました。ところで、スピリチュアルとは、肉体的感覚や理性では把握できないエネルギーの流れや心の深い世界を意味する言葉で、精神性、霊性、人生の意味、内的宇宙などの訳語が使われることもあります。

2017年の講習会では、4月に名古屋で基礎編を、9月に千光寺で上級編を、10月に千光寺で応用指導編を無事修了して、立派な修了認定証をいただくことができました。しかし、臨床瞑想法の指導者になるには、まだまだ研鑽が必要であると痛感しています。ですから、これからも臨床瞑想法の講習会があれば、積極的に再受講したいと思っています。しかし、今回、臨床瞑想法のカリキュラムを一通り修了したので、臨床瞑想法についての私なりの理解をまとめて、大下住職に報告しようと思います。

大下住職が開発した臨床瞑想法は、悟りを目的とした厳しい修行ではなく、癒やし(ヒーリング)や健康(ウェルビーイング)を目的とした緩やかな療法(セラピ-)であり、特にスピリチュアルケアのツール(道具、手段)として開発されたものです。癒やしとは、不健康な状態からより健康な状態へと変化することです。健康とは、従来、フィジカル(身体的)、メンタル(心理的)、ソーシャル(社会的)の3つのアスペクト(側面)で良好な状態(ウェルビーイング)であると考えられてきましたが、最近では、スピリチュアル(精神的、霊性的)な側面も重要であるという考え方も徐々に広まりつつあります。例えば、緩和医療が確立したことにより、看護や介護の教科書にもスピリチュアルペインやスピリチュアルケアという用語が記載されるようになりました。瞑想を活用してクライアントが癒やされた感覚を持てるように援助するための臨床瞑想法は、フィジカル、メンタル、スピリチュアルな健康に関係しています。大下住職はこの瞑想法を「ゆるめる」「みつめる」「たかめる」「ゆだねる」という4つの瞑想メソッドに分けて、段階的にわかりやすく体系づけています。「ゆるめる」瞑想は、深呼吸を数回行ってから、全身の筋肉を弛緩させることによって、身体的リラックス感と心理的安心感を増大させます。「みつめる」瞑想は、観察と洞察から成り立っています。講習会における時間的割合は、観察が1に対して洞察が3でした。実習では、観察を5分やってから洞察を15分やりました。まず自分にとってネガティブな、または、逆にポジティブな出来事を一つ取り上げます。次に、その出来事における事実関係を客観的に、具体的に、詳細に観察します。その後、それに対する意味づけを洞察します。この瞑想の結果、その出来事に対する従来の意味づけがより適切で、より健全な新しい意味づけへと変容します。すると、心理的苦痛が消滅、または、軽減したり、物事を観る視野がさらに拡がったりして、状況への適応力がさらに高まります。これはアルバート・エリスの論理療法と共通性が多いように思いました。以上の2つの瞑想メソッドが基礎編です。基礎編では、スピリチュアリティや宗教性が必要とされないので、病院や福祉施設、あるいは、学校などの公共空間でも導入が比較的容易だと思われます。次の2つが上級編になります。「たかめる」瞑想は、気功、クンダリニーヨーガ、密教的修行などと共通性があります。何らかの技法やテクニックを用いて自己の内なる生命的、霊性的エネルギーを増大させようとする試み、工夫、実践です。講習会では、ローソクの炎を見つめる方法で実習しましたが、世界中のあらゆる宗教的実践は、この「たかめる」瞑想に取り入れることができます。この瞑想に連続して「ゆだねる」瞑想へと移行します。「ゆだねる」瞑想では、自分という相対、有限の存在を超えた絶対、無限の存在に融合、統合されていきます。瞑想者の内部において現実を超えたスピリチュアルな世界が展開されていきます。これはもはや技法ではなく、大いなるもの(サムシング・グレート)との融合と統合の実感(リアライゼーション)そのものです。私の場合は、阿弥陀仏の本願に触れて、包まれて、溶け込んでいくことが「ゆだねる」瞑想になります。浄土宗の山崎弁栄上人が提唱した光明主義の用語では、即今当念弥陀合一の念仏です。大下住職の真言宗では、即身成仏と言います。このように上級編では、スピリチュアリティや宗教性が必要とされるので、公共空間での導入にはさまざまな事情を配慮して、慎重にならざるを得ない面もあると思われます。

大下住職は、臨床瞑想法を「心と身体がよみがえる4つのメソッド」として提唱されていますが、私はこの4つのメソッドの組み合わせにより、フィジカル、メンタル、スピリチュアルの3つのレベルに焦点を合わせて実践するのが適切なのではないかと考えます。第1ステージは、フィジカルなレベルに焦点を合わせます。「ゆるめる」を専ら行い、身体的なリラクセーションを深めることで、日常意識から瞑想意識への変化を体験します。このことは、ストレル低減とメンタルな健康にも非常に効果があります。第2ステージは、メンタルなレベルに焦点を合わせます。これは、「ゆるめる」と「みつめる」を組み合わせて行います。まず「ゆるめる」により、瞑想意識に入ってから、「みつめる」において、メンタル的な問題の改善を図ります。もし、通常の日常意識のままで、そのような問題に取り組んだとしたならば、場合によっては、問題を悪化させかねません。ですから、「みつめる」の前に必ず「ゆるめる」を行うことが大切です。第1ステージと第2ステージは、スピリチュアルなものや宗教的なものに警戒感や不安感を持つクライアントでもあまり抵抗感なく実行できるはずです。また、科学的なエビデンスも比較的収集しやすいように思われます。第3ステージは、スピリチュアルなレベルに焦点を合わせます。「ゆるめる」と「たかめる」と「ゆだねる」を組み合わせて行います。まず「ゆるめる」で瞑想意識になり、「たかめる」で内的エネルギーを高めながら、自然的に「ゆだねる」へと移行して、自己超越を目指します。もし、メンタル的な問題が「たかめる」の障害になるような場合は、「みつめる」によって、その障害を取り除いてから「たかめる」を行います。ところで「ゆだねる」へと移行せずに「たかめる」に専念することもあり得ますが、その場合、瞑想者は自己超越の段階に進まないので、不適切な価値観や考え方を持っていると、自我肥大、例えば、「私は神だ。」とか「私は人類を救わなければならない。」などのような誇大妄想に取り憑かれる危険性がないとは言えません。ですから、「たかめる」は、常に「ゆだねる」と組み合わせて、自分を超えた大いなるものへ向かって、自分を放下していく在り方で実践するほうが安全だと思います。逆に「たかめる」を全く行わずに、「ゆだねる」だけに専念することも考えられますが、その場合は、大いなるものとの一体化が体験的ではなく、観念的になってしまいがちです。つまり、荒唐無稽なおとぎ話のように感じられやすく、確実な融合感や統合感がなかなか得られないのではないでしょうか。やはり、瞑想者は自己の内的エネルギーを高めながら、自己を超越する段階へと移行していったほうが、手応えのあるスピリチュアリティ探究が可能になると思います。

存在の神秘や人生の意味を探究したり、死生観を確立したり、生老病死の問題を解決しようとしたりするところに、スピリチュアリティと宗教性の必然性が現れます。しかし、すべての人がそのような必然性を感じているわけではないことも事実です。欧米や日本などの先進国では、文化的、社会的風潮として宗教的世界観よりも科学主義的世界観が優勢になっています。また、世界には唯物論が政治体制の指導原理になっている国家もあります。そのような社会にあっては、スピリチュアルなことや宗教的なことは抑制しなければ、生活しづらい場面も多くあるでしょう。日本の現状を考慮すると、公共空間においては、スピリチュアリティや宗教性を前面に出すことは、やはり控えたほうがよいように思われます。ですから、大下住職も都会のクリニックなどのような非宗教的な公共空間を会場にして講習会を行う場合は、「ゆるめる」と「みつめる」の指導に留めており、「たかめる」と「ゆだねる」の指導は、あえて千光寺という宗教的空間の宗教的雰囲気の中で行っているのは、そのような配慮の現れだと思います。今後、「たかめる」と「ゆだねる」の指導を千光寺以外で行う場合でも、寺院、神社、教会、修道院、歴史的な建物、あるいは、大自然の中など、特定の宗教にこだわらなくても、自分を超えた大いなるものに出会えるような、ある意味で、神聖な場所でなければ、「たかめる」と「ゆだねる」の指導は不適切だと思われます。つまり、本格的な瞑想から宗教性を取り除くことは不可能なのですが、そこに至るまでの準備段階としての宗教性を取り除いた瞑想的なリラクセーションや心理療法は十分に可能だと思います。

宗教者の立場では、瞑想とは宗教的な「たかめる」と「ゆだねる」なのですが、スピリチュアルケアの現場では、宗教に懐疑的な、または、否定的なクライアントを援助することも想定されますので、スピリチュアルケア・ワーカーの志願者は、そのようなクライアントの非宗教的な、時には、反宗教的な話にも傾聴し、共感を示しながらも、もし可能であれば「ゆるめる」と「みつめる」の指導もできるような準備と用意をしておくことが望ましいでしょう。そのようなニーズ(必要性)に対して、非宗教的な瞑想メソッドを含んでいる臨床瞑想法は、最適なツールとして大いに役立つことでしょう。実際、今回の講習会のロールプレイ実習でもほとんどの場合、「ゆるめる」の指導を練習することになりました。私はまだ現場を経験したことはないのですが、おそらく、実際のケアにおいては、クライアントとの対話と傾聴と共感が主となり、瞑想の指導まで行くことは、あまりないように予想されます。たとえ、瞑想の指導の機会を得たとしても、ほとんどの場合は「ゆるめる」の指導に終始し、ひょっとしたら「みつめる」も指導するかもしれないというのが実態ではないでしょうか。病室などで「たかめる」と「ゆだねる」を指導することはまずないのではないかと想像されます。しかし、スピリチュアルケア・ワーカーは、自己研鑽として常に自分自身のスピリチュアリティ探究を深めていかなければなりません。したがって、「たかめる」と「ゆだねる」はスピリチュアルケア・ワーカーにとって必要な瞑想になるでしょう。その意味でも、宗教的な瞑想メソッドも含んでいる臨床瞑想法は非常に優れたツールであると言えます。

 




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